平成14年10月 堀江神社発行「敬神のしおり」より
新須賀の歴史と堀江神社の由緒
 室町時代の末期、足利幕府の力が弱まる中で、日本各地に群雄が割拠し、天下を統一して政権を握ろうとする戦国時代に入ります。乱世の時代でした。当時、新須賀はまだ州の状態にあって、開拓されていませんでした。

 その頃、新居浜の岡崎城(郷山)の城主であった藤田大隅守と親交があり、現松山市堀江町の花見山城主であった河野通孝公は、藤田大隅守から新須賀の開拓を勧誘され、永禄3年に一族を挙げて移

住し、新しい土地の開拓に当たることになりました。永禄3年といえば、後の天下人となった織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼした年で、西暦で言えば1560年に当たります。

 その当時、国領川は城下あたりから東に迂回して、今の東雲町や南小松原町の東側を流れ沢津に河口をもっていたと伝えられています。その、国領川から尻無川に至る広大な州の開拓を始めるに当た

り、河野通孝公はこの土地をかつての自分の領地であった堀江にちなんで堀江村と名付け、大三島の大山祇神社(河野氏の氏神)からご御霊を勧請し、社殿を建てて新しい土地の守護神としてお祀りしたのです。

当時は、堀江神社は「堀江三島大明神」と呼ばれていて、今でもその社号額が堀江神社の拝殿に掲げられています。この呼び名は、「堀江」の地名と、大山祇神社が大三島あったことに由来します。

なお、国領川の堤防が現在の姿に造りなおされたのは、江戸時代に、別子銅山の銅を運び出す経路として種子川山から国領川の堤防沿いが予定されたからであって、そのため国領川沿いの地域は天領

(幕府の直轄地)とされました。結果的には、銅の運び出し道路は登道とされ、それまでは地続きであった新須賀が国領川で東西に分断されたことになったというわけです。

その名残は、古い堤防跡や国領川の西側が新須賀甲番地となり、東側が新須賀乙番地となって残っています。

 河野通孝公は、中世の伊予を支配した河野一族の後裔(こうえい)です。河野氏は、元寇の役で勇名をはせた河野水軍のことや、中世における伊予支配の拠点であった道後湯月城の発掘調査などによっ

て有名ですが、伊予郡の岡田村を拠点としたこともあり、岡田性を名乗ることもあります。通孝公は、豊臣秀吉による四国攻めに抵抗する金子備後守に協力して出陣したこともありましたが、その後開拓に

力を注ぎ、広大な水田を造成することに成功し、新須賀の発展の基礎を築きました。この開拓には、河野(岡田)一族だけではなく、各地から集まったいろいろな氏族の人々が力を合わせて取り組み一致協

力して新しい土地を拓いたのです。そしてこうした村人たちの団結の中核になったのは、鎮守の杜、産土神を祀る堀江神社でした。

 新須賀を拓いた先祖たちは、春には五穀豊穣を祈る祭りをし、秋には五穀豊穣に感謝する祭り(例大祭)をして、神と人が相和す(神人一和の)祝いと祈りを神に捧げました。これは村を挙げての大切な儀

式であり行事でした。正月と夏には初詣や夏越の祭り(わごせ)で家内安全や家業繁栄を祈り、また、人生の節々には、お宮参りをし、人間の力の及ばないときは神のご加護を祈るご祈祷もしてきました。

 また、小どもたちにとっては、鎮守の杜は遊びの庭であり、年齢の差を超えた子ども集団が嬉戯として夕闇の迫るまで遊んだものでした。子どもたちにとっては、非日常的なお祭りも楽しみの一つでした。

その子どもたちが、大人になってふるさとを思うとき、鎮守の杜も「心のふるさと」になっているといわれます。

堀江神社の御祭神と御神徳

堀江神社にお祀りしている神様は、大三島の大山祇神社の神様とかなり共通しています。それは最初にお祀りしたのが大山祇神社から勧請した神様だったからです。

・大山祇神(おおやまづみのかみ)

 日本の国生みをされた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子で、山の神とされる。大山祇神の名前の意味は、「偉大な、山の神」。山は人間にとって食物の宝庫であり、ま

た、水の源であって、稲作栽培を始めてからは田の神としても崇敬されてきた。さらに山は鉱物資源の宝庫でもあるので、別子銅山を経営した住友も新居浜市の山根に大山祇神社を建立して守り神としてきた。

 大山祇神は別名「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも呼ばれる。和多は、綿津見の和多であり、海の神を意味する。「聞けわだつみの声」の「わだつみ」は海の神の意味である。大山祇神は山の神であ

ると共に、漁の神であり、海運の神であり、凪の海。逆巻く波の神でもあった。だから大山祇神社は、漁師たちの崇敬を集めただけでなく、河野水軍や村上水軍の氏神となり、海戦の神とも仰がれた。源義経

をはじめとする武将たちが奉献されたとされる、多くの鎧・兜や太刀などが大山祇神社の宝物殿に保存されているが、これを見ても、大山祇神がどんなに崇敬を集めていたかがわかる。

 大山祇神は「偉大な山の神」であると同時に、「海神」である。だからこそ、山の神でありながら、瀬戸内海の大三島に祀られているのだと思われる。なお、「伊予風土記」逸文の中に仁徳天皇の頃、百済から渡来した神という説が記載されているが、日本古来の神と理解する方が自然である。

 

・高淤加美神(たかおかみのかみ)

 伊弉冉尊(いざなぎのみこと)が迦具土神(かぐつちのかみ:火の神)を三段に斬ったとき、雷神、山神とともに生まれた神で、雨を司る竜神とされる。雨乞い、止雨を祈願する対象の神ともなる。

 水を司る神は、弥都波能売神(みずはのめのかみ)であるが、水のもとは雨であり、水田耕作を始め、人の命のもととなる水への畏敬の念が信仰となって、高淤加美神信仰は古くからあった。また、現代の化学産業・電子産業がきれいな水を必要とするところから、産業の神ともなる。

 

・大雷神(おおいかずちのかみ)

 大雷神は、雷神であり、大は敬称である。昔、雷神は恐怖の対象であり、祟り(たたり)や神の怒りと受け止められ、荒ぶる神と考えられた。雷は、神鳴りであり、落雷によって火災も起これば人を直撃して

死に至らしめることもある。雷信仰は、雷神を穏やかに鎮めることによって、幸いをもたらす神に変えようとするものであって、怨霊信仰(おんりょうしんこう)の元祖といえる。怨霊信仰も、祟り神を祀り鎮め

て、その霊力による救済を祈る信仰であり、菅原道真公の怨霊えお天神として祀ったり、平将門を神として祀るのもそうした信仰による。

 しかしいまや雷が電気であることが明らかになり、雷信仰は、怨霊信仰ではなく、電気工業・電子工業を司る神として、新しい意味をもった信仰になっている。

 

以上の大山祇神、高淤加美神、大雷神の三神を、三頭神と申し上げ、昔から人々の生活や産業と深く結びついてきました。大三島の大山祇神社が瀬戸内海近辺だけでなく、日本の広い地域で崇敬されて

きたのは、そこに祀られてる神々の御神徳によるものだと考えられます。新居浜地域では、一宮神社や高祖の三島神社も大山祇神社のご神霊を祀っており、堀江神社と同じ神様を祀っていることになります。

堀江神社には、以上の三頭神の他、次の神様もお祀りしています。
・支那津比古神(しなつひこのかみ)

 支那津比古神は、祓い除けの神「速秋津日子神」(はやあきつひこのかみ)と「速秋津日売神」(はやあきつひめのかみ)の二神の御子で、風の神である。風(空気)は、農耕に欠かせないが、暴風(荒ぶる

神)は魔風として恐れられてきた。支那津比古神を祀る神社が多いのは、魔風を崇めて鎮め、必要なだけの恵みを祈願したからであろう。

 堀江神社に支那津比古神が祭られているのは、支那津比古神も大山祇神社の御祭神になっているからである。瀬戸内海で生活した人たちにとって、暴風はもっとも恐るべきものであったに違いない。

新須賀を開拓した人々にとっても、新田の生産の稔りに対する祈願が込められていると考えられる。

 

・菅原道真公(天神様)

 天神様を堀江神社にお祀りしたのは、昭和四十七年二月六日のことであって、最近のことである。天神様は、学問の神様としてよく知られ、全国各地にお祀りされ、信仰を集めている。

堀江神社では、この時期から子どもたちの育ちに「おかしさ」が見られるようになったことを重く受け止めて、京都の北野天満宮から御神霊を勧請し、地域の子どもたちの心身共に健やかな育ちを祈願するため、お祀りすることとなった。

いまは、二月六日に小学校に上がる子どもを対象に「勧学祭」を行うと共に、初宮参りや「七・五・三詣り」の子どもたちには、天神様のお札とお守りをお渡ししている。

菅原道真公は、学問の道に優れられただけでなく、心の清い誠実な方であって、単に合格祈願だけの神様ではなくて、清く、明るく、正しい心と、深い知恵を持った人間に子どもが育つことを守ってくださる神である。

 

・河野通孝公

 河野通孝公は、堀江神社の由緒の処でも述べているように、新須賀の開祖といえる先祖である。

 もちろん、新須賀の開拓は、河野通孝公お一人の力で出来たものではない。多くの人が、河野通孝公を中心にして、大変な苦労の上に新しい土地が開発されたことであろう。そして、その団結した厳しい労

働の心の支えに堀江神社はなってきたと思われる。河野通孝公をいつから堀江神社の御祭神にしたかは不明だが、河野通孝公を神として祀ることによって、先祖たちの御霊に感謝しようとしたのだろう。い

まの私たちは、この先祖たちの残してくれたものを大切に守っていくことが大切だと思われる。

 

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